
巻きこまれ、溶けあい、昇りゆく写真:石川真生試論 福住廉
「あたし」と「あなた」が溶けあい、とろけあい、ひとつになれるということ。人間と人間のコミュニケーションの原型が他者との同一化というフィクションにあるとすれば、石川真生の写真ほどそうした融合の働きを体感させる写真はない。それは、彼女が映し出す沖縄やフィリピンの女たち、あるいは米軍基地に勤める兵士、自衛隊員、港の沖合士、沖縄芝居の一座、そして米軍基地をめぐって揺れる沖縄市民などの生々しい「生」が、それらを眼差す私たちの「生」を激しく共振させるからだが、同時にそこには被写体との関係を結んだ石川自身の影が間違いなく落ちているからでもある。被写体との一定の距離を保つ客観幻想に囚われる写真家が多いなか、石川真生はそのあいだの距離をできるだけ縮めようとしている。だからこそ金武の外人バーで働きながら、そこに集う人間たちの営みを撮影した石川は、当時を振り返って、次のように断言できるのだ。「そのとき、私は基地の町の女、そのものだった」(『カメラ毎日』1982年7月号)。自己と他者、あるいは写真を撮る主体と撮られる客体の境界線が不明瞭になるほど、全身で対象に没入していく徹底的な潔さこそ、石川真生の真骨頂である。
こうした方法論は、社会学や人類学でいうところの「フィールドワーク」に近い。それは、一般的には現場に継続して滞在しながら文字化ないしは数値化される以前の一次情報を収集する活動全般を指しているが、より概念的に言い換えれば、「外部」の視線を持ちながら「内部」に入り込むことだといえる。ここでいう「外部」と「内部」はあくまでも任意のカテゴリーだから、必ずしも未知の諸外国だけが「外部」とは限らないし、私たちが暮らす日常生活が「内部」であるとも限らない。つまり、ふだん慣れ親しんでいる日常社会を「異世界」として発見しなおす身ぶりも立派なフィールドワークである。じっさい、沖縄芝居の一座に同行するにせよ、自衛隊に密着取材するにせよ、沖縄生まれの石川が勝手知ったる沖縄から未知の事実や声を丁寧に浮き彫りにしていくフィールドワークの手法は、石川真生の長い写真のキャリアに終始一貫する構えにほかならない。それが凡百のジャーナリストにも勝る優れた行動力であることは疑いないとしても、しかしここで重要なのは、「外部」と「内部」をどこに措定するにせよ、フィールドワークにおいて両者は決して同一化しえないということだ。たとえ「内部」に自然に馴染むことができたとしても、フィールドワーカーが「外部」の視線を手放すことはない。それを放棄したとき、フィールドワークという方法論はたちまち失効してしまうだろう。同様に、石川真生の写真がどれほど対象に没入していたとしても、写真を撮るという一点において、そこには「外部」の視線が辛うじて保たれている。いみじくも東松照明が鋭く指摘したように、「ミイラ取りがミイラになる直前の危うさのなかで見た人生の裸形がここに投げ出されてある」(『カメラ毎日』前掲誌)のだ。
対象に接近していく志向性とその対象から身を離す志向性。この相反する運動性を限界ぎりぎりまで突き詰めること。それが、石川真生の写真に通底する表現の原型である。けれども、それは写真家やアーティストが陥りがちな、主観的な独創性という神話に囚われているわけではない。逆に、それは石川の「外部」に大きく開かれている。本展でおよそ10年ぶりに公開される「日の丸を視る目」のシリーズは、石川真生の写真表現であると同時に、いや、じつのところそれ以上に、被写体である市井の人びとによる表現でもあるからだ。この一連のシリーズは、「日の丸を使っていろんな人に表現してもらったらおもしろいんじゃーないか」(『アサヒグラフ』1999年9月17日号)という石川のひらめきに端を発しているが、そこにはヤマトの人びとによる自己表現によって、沖縄人である石川自身が「自分が何者であるかを知る」というねらいがあった。だが、おのれを知ったのは石川だけではないだろう。日の丸を材料にして自分自身を表現するという非日常的な経験は、まちがいなく被写体となったヤマトの人びとにとっても、自己と日の丸との関係性を問い直し、ひいては自分の立ち位置を再確認することになったにちがいない。つまり、石川真生と彼女が選んだ人びとの双方が重層的に折り畳まれている間主体的な表現のありようこそ、「日の丸を視る目」のシリーズを支える構造なのだ。ある一面では、異分野のクリエイターが協同するコラボレーションといえるのかもしれない。だが、「日の丸」をめぐる沖縄と日本のねじれた歴史を考えると、むしろウチナーンチュとヤマトーンチュというそれぞれの他者が出会う闘技場というほうがふさわしいのではないだろうか。ちょうど石川真生がイデオロギーの相違を越えて、さまざまな立場の人びとに接触することで日の丸をめぐる豊かな差異を明らかにしたように、私たちが味わいたいのは、これらの写真のなかで拮抗し、あるいは調和し、もしくは反発する、多種多様な表現の激突にほかならない。すると、「外部」に開かれている石川の写真は、必ずやこう問い返してくるはずだ。
「なら、あんたはどうなのさー?」。
◎ふくずみ・れん[美術評論家]

